忘れ水 幾星霜 第六章 Ⅵ
「うん、見せて・・ね」
千香は歪んだ顔をチラッと見せ、また目を閉じてしまった。病室内のモニター音が反響して、輝明の頭の中を駆け巡る。
「オレ、売店に行ってくるね」
その場にいたたまれない輝明が廊下に出ると、年配の看護師から呼び止められた。
「あっ、金井さん! ちょうど良かったわ。吉田先生から連絡です。ムンテラ(病状説明)をするので一階の面談室にお願いします」
「はい、了解しました」
面談室に行くと、主治医の吉田先生と緩和ケアの佐々木主任が待っていた。
「お世話になります。先生・・」
「さあ、どうぞお掛け下さい」
パネル画面にMRIの映像が映し出された。映像の説明を聞きながら、輝明の目は、脳は、心は画面にくぎ付けとなる。凄まじい転移が彼女の体を蝕む状況にあった。
《千香ちゃん・・。あ~ぁ、母ちゃん、千香ちゃんを助けてやって・・》
「これが、橋本さんの体です。どうして、ここまで耐えられるのか、私には判断できません。とても強い方ですね」
「先生、耐える理由があるんです。約束した・・、ある人を待っているからです」
「そうですか、生きる力を与える大事な人は、どちらから来られるのですか?」
「ブラジルからです。来週には到着の予定です」
《大事な人を守ると約束した人。亜紀さんを待っている。千香ちゃん、もう・・いいよ。ごめんな、こんな辛い思いをさせて・・》
「本人が激痛で耐えられない場合は、モルヒネを投薬するかもしれません。ご承諾を頂けますか?」
「はぁ~、は、はい。承知し・・ました」
「それから、緩和ケア・チームに指示してありますので、何か心配事があれば相談して下さい」
《先生! 助けて、千香ちゃんを助けて・・》
「先生、千香ちゃんの命・・、いつまで・・」
主治医の吉田は輝明の目を直視する。輝明は吉田の目を避けた。主治医は長年の経験から判断した答えを、ストレートに告げる。
「残念ながら、短い状況と思われます。親しい方に早めの連絡をして下さい」
「はい? そんな・・?」
主治医の吉田が面談室から出て行く。輝明は動けなかった。主治医に礼も言えずに椅子に座ったまま、気力が失せる。緩和ケアの佐々木主任が、輝明の肩を労るように触れて立たせた。彼は黙礼をしてから、面談室を出る。
駐車場の車に行き、運転席に腰掛けた。両手をハンドルに置き、ジッと前のフロントガラスを見詰める。ガラスは温度差で曇り始め、前が見えなくなった。
突然に、携帯のマナー・モードの振動が、彼の心を揺り動かした。