忘れ水 幾星霜 第四章 ⅩⅤ
「輝君、ありがとう。千香、悲しいことを言わないで。必ず、会いに行くわ」
千香がゆっくりと立ち上がり、部屋に行き封筒を持って来る。封筒を亜紀に手渡した。亜紀は、手にした重い封筒を見詰め、体を固くし微動だしない。
「誤解しないで、あなたの心を踏みにじり、卑しめるつもりはないわ。このお金は輝坊ちゃんの結婚費用に蓄えたものよ。お願い信じて・・」
「亜紀さんが、病気などで困ったときボクは何も手立てがない。せめて、ボクがブラジルに来るまで、これで凌いで欲しいのです」
亜紀は伏せていた顔を上げ、ふたりの顔が真剣であることに気付く。彼女は張り詰めた気持ちを和らげ、ふたりの顔を交互に見て感謝する。
「千香、輝君、自分の人生につくづく嫌気がさし、ふたりがいることを忘れ諦めていた。でも、こうして再会でき、私が決して不幸な人生ではないと確信できたわ。ありがとう」
夜も更け、千香が疲れた顔でうとうと始める。
「千香、寝る前にお風呂に入りましょう。私が一緒に入って、背中を流してあげるから」
「えっ、嬉しいけど、骨皮筋衛門の体を見せられないわ。嫌よ・・」
「平気よ。憩いの園で慣れているもの。私のお礼よ」
「じゃあ、そのお返しに、ボクが亜紀さんの体を洗ってあげるよ!」
「まあ、なんてことを! 輝坊ちゃん、淫らなことは言わないの」
「ええ、分かったわ。後でお願いね。ふふふ・・」
千香はふたりの言葉に、呆れた顔をする。
「な、なんと、亜紀までふしだらな・・」
「千香こそ、可笑しいわ。私たちは、夫婦なのよ」
千香は諦めて、亜紀と一緒にシャワー・ルームへ行く。しばらくすると、ふたりの笑い声が聞こえてきた。
入浴後、千香をベッドに寝かせた亜紀が、部屋を出た。
《伯母さんとの約束を守り、私の役目は終わったわ。本当に良かった・・》
静かな眠りにつく千香の眦から、一筋の涙が流れスーッと枕に染み込んだ。
「あら、テレビを見ているけど、ブラジル語を理解できるの?」
亜紀が居間に戻ると、シャワーを済ませた輝明がソファでテレビを見ていた。彼女は隣に座り、輝明の手に自分の手を重ねる。
「千香ちゃんは寝たの?」
「うん、やっぱり疲れていたのね。入浴が済んだらぐったりしていたわ。それにしても、可哀そうなくらい痩せていた。千香に言われたわ。一緒に温泉巡りがしたかった。仲の良い友達同士が旅行しているのに、私たちはできなくて残念だって」
「千香ちゃんは友達が少なかった。せめて、一度でも亜紀さんと旅行させたかったね」
「ええ、残念・・」
亜紀が体を寄せ、輝明の顔をじっと見る。ふたりは自然に唇を合わせた。その晩、ふたりは夫婦の固い契りを結ぶことができた。