忘れ水 幾星霜 第四章 Ⅲ
「一緒に生活できなくても、あなたがこのブラジルに生きている。それだけでも、ボクは幸せを感じ生きて行けます。ボクの意味する結婚は・・、せめて、愛する人が指輪を身に着け、常に存在を意識できると考えたからです」
亜紀は、彼の顔を直視した。輝明の言葉の意味を理解し、感情を押さえていた心が弾ける。
「輝君、ありがとう。決心したわ。あなたの優しい気持ちを受け入れる」
ふたりの瞳は絡み、聖壇のキリスト像の前で熱く唇を交わす。ふたりは席から立ち上がり、再び強く抱擁する。隔たる星霜を越え、ようやく愛の情感を確信できた亜紀と輝明であった。
「心の結婚、輝君らしい発想ね。まだ、胸がドキドキしているわ。初めてのラブ・レターを渡された時と同じよ・・」
幸せの涙が溢れだし、輝明の広い胸の中で三十年分の思いを一気に吐き出す。
「亜紀さん、ありがとう」
輝明は、一度は仕舞い込んだ小箱を取り出して、指輪を亜紀の左手の薬指に差し入れる。亜紀が彼の薬指にしっかりと指輪を通した。夕方のミサの練習を始める聖歌隊の人々が、ふたりの様子に拍手喝さい。そして、一曲合唱して祝う。
ホテルへ帰る間、ふたりは指輪の重さを意識しながら歩く。どちらともなく顔を見合わせ、千香が待つホテルへ急いだ。
「断られたら、どうしようか心配だった」
「ふふふ・・、もし、断っていたら? ん? この指輪をどうするつもりだったの?」
「う~、たぶん、自分の指輪をサントス港へ行き大西洋に投げ捨て、亜紀さんの分は日本に帰って太平洋へ投げるつもりだった」
「え~、そんな勿体ないことを・・、私は許しませんよ」
亜紀が、叱る千香の顔を真似しながら、輝明の腕を抓る。
「おっと、千香ちゃんの真似をしなくても・・。アッハハハ・・。捨てないで済んだでしょう」
輝明は繋いでいる手に力を込める。
「これで、別々の国で生きても、常に一緒ですね」
「はい、ご主人様。ふふふ・・」
亜紀もギュッと握り返した。
ホテルの部屋に戻ると、待ちくたびれた千香が頬を膨らませぷりぷりと怒った。
「ごめん、ごめん、遅くなって悪かった」
輝明が機嫌を取る。
「病人の私を除け者にして、楽しんでいたのね。いいわよ。覚えていなさい」
「千香! 私たち、結婚したの」
亜紀の言葉に、拗ねていた千香の顔が満面の笑みを浮かべ、亜紀の体を引き寄せ抱きしめた。
「輝坊ちゃん。おめでとう、あなたをハグさせて・・」
輝明は、亜紀と交代して千香と抱き合った。
「千香ちゃん、やっと念願が叶ったよ。千香ちゃんのお陰だ」