忘れ水 幾星霜 第三章 ⅩⅤ
「待って! この話は・・、今は、答えられないわ」
「承知の上です。亜紀さんに負担を掛けるつもりはありません。良く考えてからで、結構です。これは、飽くまで・・、ボクの願望ですから・・」
「いいえ、輝坊ちゃんだけでなく、私の願いでもあるわ」
千香の訴える眼差しは、亜紀の心組みを撃破する。
「はぁ~ぁ・・」
亜紀は、その場に崩れ落ちる。
《ごめんなさい。こんなに苦しむ亜紀さんの姿を、想像していなかった。性急な話題と分かっていたが、思わぬ形で口走ってしまった。でも、なんとなく気持ちが理解できた》
テーブルの内線電話が鳴る。輝明が出ると、北島から夕食の迎えの知らせであった。
「亜紀さん、ごめんなさい。しばらく時間を置いてからにしましょう」
「ええ、・・」
気を取り直した亜紀は、涙を拭いながら頷いた。
夕食は、千香の足でも無理なく行ける、近くのマグロの炭焼き料理店を選ぶ。
「マルシア、マグロは刺身しか食べたことがないよ。楽しみだね」
「私もよ、マルコス。サン・パウロに住んでいても縁がなかった。千香、これなら柔らかくて食べられそうね。どう?」
「平気よ、なんだって食べられるもの」
「無理しなくてもいいよ。残ったらオレが食べるから」
注文した料理がテーブルの上に並ぶ。みそ焼きの香りが充満し、食欲を誘った。
若いマルコスが、勢いよく食べ始める。
「輝坊ちゃん、この子の食べ方は凄いわ。一皿では可哀そうよ」
「そのようだね、いやぁ~、参ったね。あっという間に終わりそうだ。若いって、羨ましいやぁ。北島さんも、もう一皿追加ですね」
「はい、とても美味しいですから、追加しますよ。特に、このセルベージャ(ビール)と合いますね。ハハハ・・、金井さんも一杯いかがですか」
輝明は酒が苦手なので遠慮するが、亜紀が一杯だけ飲み干した。
「明日は、どうするの?」
「うん、亜紀さんの勤め先を訪問する予定だ」
「あの・・、憩い・・、なんだっけ、亜紀!」
「憩いの園よ。忘れないで、千香」
「ごめん、ごめん、年寄りだから、直ぐに忘れてしまう」
亜紀は、千香の言葉に呆れた顔をする。
「なに言ってんの、私とあなたは同い年よ。年寄りだなんて、ねえ、マルコス」
「そうですよ。若いです。まだまだ、恋ができますから」
「あら、まあ、マルコスさんって紳士ね?」
「いいえ、これを言わないとマルシアに叱られます」
「えっ? マルコス、どうして私が?」