忘れ水 幾星霜 第三章 ⅩⅡ
ふたりは、それぞれに千香のことを考え、無口になる。
《千香ちゃんのことは心配だ。でも、彼女の心にはオレと亜紀さんのことで一杯なんだよなぁ。話題を変えよう》
「それでね。当初の考えでは、南マット・グロッソへ行く予定で・・」
亜紀の顔色が一瞬に青ざめ、懸命に反対した。
「それはだめ! 私のすべてを失くした場所よ。それだけは、やめて!」
輝明は、彼女の必死な形相に、落ち着いて話し掛ける。
「分かっています。千香ちゃんは、あなたが嫌がると知っていたから、行きません。北島さんが、亜紀さんの勤め先憩いの園を勧めてくれました。明日にでも、伺いたいと思っています。どうでしょうか? 千香ちゃんが一番喜ぶと思う」
亜紀の強張りが薄れ、僅かに笑みを見せた。輝明は安堵する。
「ふぅ~、驚いた。それなら、いいわ。事務長の佐和さんが、輝君たちに会いたがっているもの。なんなら、今から事務所へ行ってみる? 直ぐ近くだから」
「そうですね。夕刻まで時間もあるし、行きましょうか?」
輝明は出掛ける前にフロントに寄って、千香宛ての手紙を書いて預けた。
「これなら、千香ちゃんから問い合わせがあったら、読んで安心するものね」
「そうね、じゃあ出かけましょう」
ホテルを出ると日本文化センターに向かう。
《やはり、変わっていない。輝君は必ず車道側を歩いてくれる。昔のままね。よし、それなら昔と違うのは、これよ》
亜紀は、大胆にも輝明の腕に、自分の腕を絡めた。彼は動揺することなく、自然体で受け止める。
「ここよ!」
初めての恋人気分は、数分で終わりを遂げる。センターの入り口で、彼の腕からそっと腕を抜いた亜紀であったが、決して恥ずかしい行為ではないと自分に言い聞かせた。
《驚きだな。亜紀さんの温もりが、まだ腕に残っている》
「ここですか・・」
建物全体を見上げ、何かを確かめる輝明の素振りに、亜紀は反応する。
「どうしたの?」
彼は慌てて、とぼける。亜紀は千香の話を思い出した。
《そうだ。私を探しにブラジルへ来てるのよね。必ず、白状させてみせるわ》
「もしかして、ここに来たことがあるの?」
「と、とんでもない。初めてです」
彼は顔を赤らめ、さっさと表階段を上がり始めた。
《片意地な性格は、輝君らしい。なんとか、白状させたいな。いい案がないかしら》
そのとき、亜紀の考えよりも、驚く結末が輝明に待っていた。
「あれ、お久しぶりですねぇ。確か、高崎出身の金井さん・・、ですよね?」
恰幅の良い白髪の男性が、輝明に声を掛けたからである。