忘れ水 幾星霜 第三章 Ⅳ
ふたりはぴたりと寄り添う形になった。亜紀は驚くも素直に腕を伸ばし、両脇から背中へと手を回す。輝明の体がピクンと反応する。彼は大きく息を吸い込み、亜紀の純白なブラウスの肩に手を置く。そして、引き寄せた。
「ようやく、あなたに会えた喜びを、心と体で実感できた」
小声で亜紀に呟く。亜紀は、その言葉に刺激され、輝明の胸に頬を寄せる。薄地のポロシャツを通して、甘い爽やかな大人のオーデコロンの香りが亜紀を包み込む。
《輝君の胸って、広く暖かい。経験する初めての安らぎ。もう、あの高校生じゃないわ》
「さあ、もう宜しいでしょう。長いハグは、嫉妬で体の具合が悪くなりそうよ」
「そうだよ、マルシア。アブラッソは挨拶だけだよ」
ふたりは咎められた思いで、急ぎ互いに身を引く。亜紀の涙が頬から滴り落ち、両手で顔を覆う。マルコスが近寄り、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「ありがとう、マルコス」
「では、宿泊先のホテルへ行きましょうか?」
北島の声で、時計の針が再び動き出した。輝明と千香は北島の車に、亜紀はマルコスの車でサン・パウロ市内のホテルへ向かった。
「マルシア、彼が会いたかった人なの?」
「うん、まあね」
《そう、会いたかった。諦めていたのに・・、嬉しかった》
「まあねって、マルシアの様子を見ていたら、逃げ出すかと思った。でも、ハグのとき、本当に愛している人だと感じたよ」
「え~、本当に?」
「うん、本当だよ」
「まあ、恥ずかしいわ。見え見えだったかしら?」
空港から市内に向かう間、輝明は車窓から見える風景を無言で見詰める。流れる景色は、前回と同じなのにより明るく感じられ、人間の感覚は不思議なものだと思った。
「輝坊ちゃん、輝坊ちゃんてば! 聞いているの?」
「ん、なに?」
「また、何かを考えていたのね」
「ん~ん、不思議だと考えていたのさ」
「何が不思議なの? まっ、いいわ。それよりも良かったね。元気な亜紀を見て」
「そうだね、良かった」
「それに、亜紀は輝坊ちゃんのことを、忘れていなかった。むしろ・・」
確かに、こだわりもなく自然に向き合えたが、亜紀の心情は未だ閉ざされたままだ。現状では真意を酌み取れていない。
「まだ分からないよ。滞在中に何が話せるのか、何を理解できるのか分からない」
「コッホン、コッホン」
「体が辛いのかい? 千香ちゃん・・」
「いいえ、平気だから心配しないで。単に旅の疲れよ」
「ホテルに着いたら、少し休もうね?」
「うん、そうするわ」