偽りの恋 ⅣⅩⅡ
帰りのバスは、騒々しいくらい賑やかだった。運転する海田と俺だけが、静かな存在である。窓から入る爽やかな風に、俺の心は和む。
この風は、あの人を思い出させる。なにもかも、幸せに感じていた日々。それが、ある言葉のトリガー・フレーズに悩まされ、いつのまにか虜になった。
「海田さん、・・・」
「ん? なんだ、金ちゃん」
「うん、生の価値観、幸福の価値観って、海田さんはどう考えますか?」
「運転中に、難しい質問だな。でも、価値観は人それぞれだと思う。一つの定義に当てはまらないよ」
確かにそうだと俺も認める。
「それで、金ちゃんが考える生や幸福の価値観は?」
「まだ、分かりません。でも、そのことが、いつも頭や心を飛び回っている」
後ろの席では、誰かの言葉に黄色い声が騒ぎ立てる。
「まあな、俺もそうだよ。悩むことが一杯だ。この海外生活も、その価値観の一つだ」
海田の意見に、俺も反応する。
「やはり、海田さんもそうですか。異国生活が、俺の一番大きなフレーズです」
「深刻な話のようだけど、寮に帰ってからでいいんじゃないか?」
後ろの席から回された菓子を、大山が渡しながら声を掛けた。
「ああ、それほど深刻な内容じゃないです。海田さん、クッキーを食べますか?」
「そこの脇に置いてくれ・・」
「はい、適当に置いておきます。大山さん、残りは戻してください」
「はいよ、分かった」
俺は渡されたクッキーを摘んだ。懐かしいレモン味がする。
以前に『チャイコフスキーの生涯』というシネマを、あの人と観に行った。その時に食べたクッキーと同じ味だった。幾多の名曲が、シネマの場面で流れる。
特に『交響曲第六番悲愴』は、俺の心に響いた。あの人に恋をしたとき、苦し紛れに書いた詩の心境が甦る。それほど、切なく胸を締め付ける曲だ。
生は死の悲しみ、幸せは崩壊の嘆き、恋は失望の苦悩。愛は永遠でそのすべてだ。愛が消えるとき、すべてが無に帰する。
車窓から爽やかな風が、消えた。バスが休憩場に停まったからだ。