恵沢の絆 Ⅸ
その日、貸し切りバスに乗り、およそ三時間ほどで細江先生の別荘に到着。別荘は農園に囲まれ、都会の喧騒は聞こえない。清楚な建物が見えると、私の心音は高鳴った。バスから降りる足元が覚束ない。
簡素なベランダに、人影が現れた。子供たちは左手の奥にある広場へ向かう。細江先生が、私の姿を探し当てた。両手を大きく広げ、私が近づくのを待っている。私は、先生を目がけて走った。
「良く来られた。待っていたよ」
「ええ、先生・・。あの手紙から、八年です」
細江先生は、私を強く抱き締める。しばらくして、ベランダの椅子に腰かけるよ勧められた。座る前に、私は日本から用意した自分のネッカチーフを、スカウトの作法で先生の首に掛けて渡す。
椅子に腰かけ、八年間の思いを告げる。長く短い八年間であった。急性腎炎で三ヶ月入院したときは、ブラジルへの夢を諦めることもあった。再度、ブラジルへの決意をしたとき、無理を承知で結婚を申し込む。やはり、承諾されなかった。
やはり諦めなくて良かった。私の話を、真剣に聞く先生。私が先生の『心の土地を耕す者』について、感銘を受けた話をすると嬉しそうに頷いた。
「ところで、仕事は慣れたのかね?」
「いえ、難しいです。実は、日本語学校の松柏学園に、勤めることになりました」
「あの、川崎先生の・・?」
「はい、そうです。このカラムル隊の子供たちが、通っている学園です」
「ああ、良く知っているよ。とても躾けの厳しい学園だ。日系でも裕福な家の子弟が多いと聞いている」
「そうらしいです。先日に、誕生日会に呼ばれて行くと、中庭のプール横で盛大なパーティ。初めての経験で、カルチャー・ショックを受けるほど驚きました」
先生の表情が芳しくない様子。子供たちも帰り支度を始める。私も話を切り上げることにした。帰り際に再びハグされ、私も先生の体を抱きしめる。あの月刊スカウトの先生は精悍な姿だった。今は予想以上に細く、弱々しい体をしている。私を見詰める瞳が潤んでいた。私も感情が溢れそうになるが、堪えて別れの挨拶を交わす。
いつまでも、ベランダから手を振る先生。その姿は、私の脳裏に焼き付いた。永遠に。
その三ヶ月後、日系の新聞紙上に悲報が掲載された。私はその記事に、目を疑う心境であった。悲しみより途方に暮れる。
教会のこぢんまりした一室。奥手に重厚な黒光りの棺が置かれていた。私は列に並び、棺の中に眠る細江先生を無言で見詰める。人生とは、不可思議な巡り合わせをさせるものだ。八年かけて、たった一度だけ会わせる。二度目は、目の前に永遠の別れとして、会わせた。
墓地は街中だが、美しい門構えの入り口。中は公園のように散策ができる、見晴らしの良い場所であった。棺を納めるセレモニーが、神父によって始まる。多くの参列者と共に、先生を見送った。
「細江先生! ありがとうございました。安らかに・・」