漂泊の慕情 Ⅵ
私は彼と交際してからの期間を、思い返す。三年前の夏に、十和田湖の奥入瀬渓流をひとり訪ねたとき、湖畔の乙女の像を眺めていた私に、横から声を掛けたのが彼だった。
「私は、この作者の道程という詩が好きなんです・・」
彼の声は、囁くように静かな語り口であった。
「えっ? 高村光太郎の詩ですか・・。我が前に道は無し・・」
突然に声を掛けられ、戸惑うも直ぐに言葉を返してしまった。
「あっ、いや、独り言でした。ごめんなさい・・」
「あら、私に話し掛けたと・・。私って、とんだ早とちりね。あ~、恥ずかしいわ」
「いいえ、僕が悪いのです。申し訳ない」
私は彼の瞳を見て、一瞬に心が高鳴る。彼も、何かを感じた様子だった。私は悟られないように、小さく咳払いをして軽く頭を下げる。そして、何事もなくその場を離れた。
「あっ、待ってください。ご迷惑の代わりに、コーヒーでも奢らせてください」
私は断るつもりだったが、彼の勢いに押されて承諾してしまった。近くの観光客相手の食堂で、私は彼と対峙してコーヒーを飲んだ。特に話す内容もなく、ただ黙って飲むしかなかった。
「僕は、ひとりでぶらっと旅をします。特に訳なんて無いのですが・・。ところで、差しつかなければ、どちらから来られたのですか?」
特に差し障ることも無いと考え、私は答えた。
「はい、群馬県の高崎から来ました」
「え~、僕も高崎です。奇遇ですね!」
彼の驚きは、私にまで移ってしまったほどである。
「うっそ~、本当なの。信じられないわ」
確かに、この会話でふたりの間隔が、限りなく狭まった。最初の心の高鳴りが、継続的なものに移り変わった。
それは、初めて経験する異性への関心が、私の心に芽生えた時であった。その後、一緒に奥入瀬渓流を散策する。彼は予め調べていた様子で、楽しく過ごすことができた。
夜は、別々のホテルを予約していた。本音で言えば、少し残念に思う私であった。翌日の朝に改めて会う約束をして別れる。
ひとりで過ごすホテルの夜。湯あみを済ませ部屋に戻る。畳部屋に敷かれた寝具。横になり心地よく体を伸ばした。
「わ~っ、疲れが取れそ~ぅ。でも、彼って感じが良さそう。高崎に帰ったら、付き合っちゃうかな。ふふふ・・」
天井を見詰め、今日出会った彼を思い出す。気持ちが高ぶり、目が冴えてしまった。
「困ったわ。寝不足の顔を見せたら、変に勘ぐられてしまうかも・・」
仕方なく、興味のないテレビ番組を見る。しばらくして瞼が重くなり、そのまま朝までぐっすりと寝ることができた。
小鳥のさえずりで目が覚める。窓を開けると、清々しい空気が体を包む。