忘れ水 幾星霜 第六章 Ⅷ
千香が顔を歪め苦しみだした。輝明は直ぐにナース・コールを押す。看護師が廊下を駆けて来た。三人は、部屋の隅に固まり対応を見守る。看護師は院内携帯で医師に連絡。三人は廊下で待つよう指示された。千香の苦しむ声が、廊下で待つ三人の耳に聞こえる。
「輝叔父さん、何かあったの?」
その時、東京の貴志が到着。廊下で待つ三人の顔に不安の影。貴志は愕然とし、輝明に質問した。
「うん、今、先生を呼んで待っているところだ」
「そう、心配だなぁ」
青ざめた顔で、病室を見詰める。
「貴志君、しばらくだね・・」
「あっ、高崎のおじさん。お世話になります」
輝明の兄に気付き、挨拶した。
「奈美は、いつ来たんだ?」
「九時ごろよ。今まで、ママと話をしていたの。それが突然に・・、信じ・・られ・・ないわ・・」
奈美がショックの余り声を呑む。輝明が奈美の肩を優しく抱いた。薄い緑の手術着に聴診器を持った主治医の吉田が、階段を急いで駆け上がって来る。輝明を見ると、黙礼してから病室に入った。十分ほどして、主治医の吉田が出て来た。
「モルヒネを投与しました。会話が難しくなると思われます。中にどうぞ・・」
貴志がベッドの千香に、声を掛ける。
「母さん、僕だよ。聞こえるかい?」
「ママ、お兄ちゃんが来たよ。目を開けて・・」
千香が、微かに反応したと思われたが、目は閉じたままであった。
「貴志君、奈美ちゃん。残念だけど、薬のせいで無理かもしれない。しばらく休ませてあげよう」
貴志は頷き、椅子を引き寄せ声を掛けずに座る。じっと母親の顔を見詰めた。奈美も兄の後ろに立ち、肩に片手を置いて千香の顔を一緒に見詰める。
輝明は兄と階下のロビーに行き、売店で買ったペットボトルの紅茶を飲む。
「亜紀さんが、明日の便で日本に来ることになった。それで、オレは成田へ迎えに行くから、病院の方は頼むね。一応、子供たちが付き添うと思うけど・・」
「ああ、いいよ。心配するな」
兄は、輝明の肩をポンポンと叩き、病院を後にした。兄を見送った輝明は、歩いて通える近くのビジネス・ホテルに二人分の予約をする。温かい缶コーヒーを売店で購入して病室に戻った。
「はい、飲みなさい。千香ちゃんは傍にいることを感じているよ。だから、話せない辛さはあるけど、心を穏やかにすることが、千香ちゃんにとって必要だと思う」
ふたりは、輝明の言葉に頷き、温かいコーヒーを口にした。輝明は千香の頭を静かに触る。そして、頬を優しく撫でた。