忘れ水 幾星霜 第四章 Ⅸ
「ん、何を? どんなこと?」
「おば・・、輝坊ちゃんのお母さんが亡くなるとき、私が傍にいたの。あの子が不憫だから、仲の良い私に面倒を見てねって頼んだわ。私は簡単に、いいよって答えた。だって、輝坊ちゃんが大好きだったから・・。
伯母さんは、輝坊ちゃんが生まれてから、入退院を繰り返しまともに育てる時間が無かった。輝坊ちゃんも母親に抱かれたり甘えたりした記憶が少ないはず。保育園の母子ダンスは、いつも先生が相手。小学校時代は病院のベッドで一緒に寝たそうよ。
頼まれたとき、差し迫ることは無いと考えていた。私が頷くと、伯母さんは涙流し喜んでくれたの。その直ぐ後だったわ。今でもあの感触は忘れない。私の手を凄い力で、握ったまま亡くなったの。私が経験する初めてのショックだったわ」
「高一の授業中、あなたわ随分落ち込んでいた。あの時なのね? 千香は何も言わなかった。私は心配だった・・」
「ええ、あれ以来よ。輝坊ちゃんに嫌がられても、お節介をするようになった。何度も口喧嘩をしたか・・。でもね、彼は決して私に手を出さなかった。黙って本を読んでいた」
「・・・」
「・・・」
ふたりは輝明の顔を思い出し、心の中で黙想する。亜紀が、冷蔵庫からガラナ・ジュースとグラスを持ってきた。グラスにジュースを注ぎ、千香に渡す。千香は一口飲み喉の渇きを癒すと、亜紀を見詰める。
「輝坊ちゃんが詩を書き始めたのは、その頃からよ。作品ができると、いつも私に読んでくれたわ。目を輝かせながらね・・」
「・・・」
「理数系が苦手なのに、工業高校の電子科に入学したと聞き、私は驚いたわ。案の定、部活は演劇部だけでなく社会部、文芸部や軽音楽部など。勉強もしないでね」
「確か、ボーイ・スカウト活動もやっていたんでしょう?」
「そうなのよ、高校三年の夏休みにバイトで稼いだお金で、北海道までヒッチハイク。制服を着て、テントを背中に背負ってよ。ある意味では、無茶苦茶な高校生活を過ごしていた。私は、叱ったわ。うるさいヤツだと思ったでしょうね。
それが、ある日突然に真面目くさった顔で、悩んでいる姿になった。私は不思議に思ったわ。しばらくして、あなたが私を誘って、手紙のことを打ち明けてくれた。ようやく気付いたわ。輝坊ちゃんが恋をしたことを・・」
「輝君に演劇祭の舞台裏で初めて会ったとき、ひとりで生真面目に飛び回っていた。だから、つい声を掛けてしまった。初めてなのに、不思議と違和感もなく話せたわ。自分でも驚いたほど・・。その後、なぜか反省会に残り、彼の様子をなんとなく眺めていたわ。
彼が、ペコッと頭を下げたの。つい笑顔で答えてしまった。今思えば、彼の行動は千香の影響かもしれない。ふふふ・・、だから、好きになったのかも・・」
「あら、そうなの? 私のせいで愛したの? それも困ったわね」
「だって、千香を嫌いだったら、輝君と交際なんてしていないもの」
「いいえ、亜紀は私が嫌いだったから、大事な輝坊ちゃんを私から奪ったのよ」