帰路の車中で、用心を怠らないよう若月に話して聞かせた。 「若月よ。恐らく、この一週間に大変な体験をすると思う」 「な、な、なんですか? 大変な体験って?」 「うん、権助やその仲間の邪鬼が襲うかもしれん」 彼はマジに恐怖を感じたらしい。 「え~、本当に襲ってきますかぁ~?」 「ああ、必ず襲ってくる。だから、匂い袋は肌身離さずに持て! それに、般若心経を覚えて、とっさに唱える準備を・・」 「全部…
「いや~ぁ、なんと心を魅了する香り!」 「そうでしょう。この香りを知って、私も虜になってしまった」 テーブルの上には、多様な形や大きさの沈香が並べられた。 「これだけ集めるには、苦労されたでしょう」 祖父は嬉しそうに、収集した経緯を事細かに説明した。横で聞いていた若月が立ち上がり、祖父の書棚から古い小冊子を見つけ手に取って読む。 「ジイ、この本を貸してね」 「ああ、いいけど。何か載っていたか…
「陛下が皇霊殿の儀式に、特別な伽羅を使いたいと所望された。困った宮廷は苦肉の策に、正倉院の伽羅を密かに削り取ることを考え、私に内命したの。以前、豊臣秀吉も削ったらしいわ。ところが・・」 彼女は、心の底から悔しさと悲しみを露わにした。 「ところが、下級官人の舎人(とねり)の権助が、幕府の役人に密告したの。私は捕らえられ、黙秘を続ける私に拷問が宣告された。当時の女性への拷問は、卑劣で屈辱的な内容だ…
千代は話し終えると、私ひとりで来るよう手招きした。 「若月、絶対に境界線内へ足を踏み入れるなよ」 彼は渋々と頷いた。私が千代の傍らへ行くと、千代は私を紹介する。 「この人が、例の大河内晋介さんです」 目の前の端麗な女性から、ただならぬ気品を感じた。私は自然に頭を下げてしまった。 「千代のため・・、世話を掛けるが・・、よしなに・・、頼み入る」 心地よい声が耳に響く。不思議な声だと思った。 …
レールの車輪と車両の軋む音が、頭の中にギシギシと響く。 「主任、降りるのは次の駅ですよね」 「うん・・」 私は前を見据えたまま、気のない返事をした。 「まだ現れませんか?」 若月は空いた車両の中を見回す。 「いや、もう居るよ」 「えっ!」 彼は驚いて目を見開き、私にそっと耳打ちする。 「ど・・、どこですか?」 「反対側の席に座っている」 「誰も座っていません・・」 浅黄染めの和服が似合…
「もう時間がない。今日は、これまでね。沈香(じんこう)の話は、次の金曜日にするわ」 《もう時間が無いって! またかよ~。いいさ、もう慣れっこだぁ》 「ん、ところで沈香って? あっ!」 一瞬の光が私を襲い、目の前が見えなくなった。しばらくして、慣れた目に元の駅前が戻る。心身に疲れを感じた。 次の金曜日までに、千代が話そうとした沈香のことを調べる。沈香は香木の意味であった。沈香の歴史は古く、六世…
ドアーが開き外の風が舞い込んできたが、その香りは私の鼻腔に残った。 彼女が車両から降りる。私も続いて降りた。プラットホームには彼女と私だけであった。改札口を通り抜け、静かな駅前に出たが私は困惑した。 「はて、ここはどこだ・・」 見た事も無い駅前の景色に、唖然とする。眼前に広がる殺風景な荒れ野。奇抜な岩山が幾つか見え、空は薄紫のどんよりとした雲に覆われていた。 私は振り向き、降りた駅名を確…
週末の金曜日、残業で帰りが遅くなる。終電のひとつ前の電車に乗ることができた。ほとんどの乗客が座席に着くなり、疲れた体を座席の背に投げ出す。そして、目を閉じ思い思いに自分の殻の中へ没入した。 乗客同士は肩を寄せ合うが、互いに無関心を装う。小さな車両は不思議な空間に変わる。私は、いつも孤独を意識してしまう。電車が動き出すまで、目を瞑り一日の出来事を振り返ることにした。 終着駅のふたつ手前が、私…
《この絵図では、八重さんはお守りの赤い箱を持っていない。その箱を邪鬼同士が奪い合う隙に、川を渡っているのだ》 私が思ったことを伝えると、福沢准教授は頷く。 「そうですね。邪鬼が赤い小箱を夢中で取り合っている。これがお守りの使い方かも・・、しれませんね」 「そうでしょう? おそらく、邪鬼は赤い物を好む。だから、それを利用した」 「そうじゃ、確か・・、あの子は赤の服装を好んで着ていたようだ」 「…
私たちは佐渡へ渡る前に、岬を訪れた。岬の上に立つふたりは、それぞれの思いでお堂を見詰める。私が夏の日差しに映える海を眺めているとき、福沢准教授はお堂に向かって独り呟いていた。海風が彼の声を遮る。 《彼は何を話しかけているんだろう》 彼が肩に掛けていたバックから、私が返したあの赤い小箱を取り出し、お堂の前にそーっと置いた。 「福沢先生、その箱をどうなさるつもりですか?」 「はい、ここに置いてゆ…