忘れ水 幾星霜 第四章 Ⅳ
「それで、亜紀は一緒に日本へ帰るのね」
亜紀は千香をソファに座らせ、自身も横に座り千香の手を握る。
「千香ね、私は日本に帰らない」
「どうして? それじゃ、なぜ輝坊ちゃんと結婚したの? 意味が分からないわ」
輝明も、千香の前に腰掛け説明しようとした。
「そ、そ・・」
「待って! 輝君。これは私の考えなの。だから、私が千香に話すわ」
「うん、分かった」
千香は呆然とふたりの顔を順次に見比べる。
「千香、ブラジル生活に慣れてしまった私には、知らない国の日本では戸惑うばかり、楽しく過ごすなんて不可能に近い話よ。だけど、輝君が提案した結婚は・・」
項垂れて言葉が続かない亜紀に替わり、輝明が補足する。
「結婚は確かにしたよ。神様の前でね。ほら、指輪も・・」
左手の薬指に光る指輪。千香はふたりの指輪を凝視し、亜紀の指輪に触れた。
「輝坊ちゃん、いつの間に用意したの。驚いたわ」
「だけど、一緒には住めない。亜紀さんはブラジル。オレは千香ちゃんと暮らす。会えるはずのない人に会え、結婚まで叶うことができた。それで十分さ。そう思わないかい?」
「ふたりがそれで納得したのなら、私は構わない」
「ええ、それで十分に満足よ。千香、私はとても幸せだわ」
「そう、分かったわ。改めて、おめでとう。これで私の心配事は無くなった」
「勿論さ、後は千香ちゃんの体を大切にするだけだ。明日、千香ちゃんが願っていた南半球の大西洋を見に行こう」
「本当? わぁ~、やっぱり輝坊ちゃん、大好き!」
千香は目を大きく見開き、輝明の顔を見て叫んだ。
「どこへ行くの? 思い返せば、私もブラジルに来てから、一度も大西洋をゆっくり見ていないわ」
「北島さんに頼んであるから、どこへ行くのか分からない。海岸は暑いから、朝早くに出発する予定だ。ただ、千香ちゃんの状態で早く戻るかも・・。いいよね、千香ちゃん」
「うん、了解よ」
「マルコスには、夕食の時に知らせる。今日は、私の家に泊まらせるわ」
夕食は、シュラスコという串刺しの焼肉料理。マルコスが途中から参加できるよう大学に近い、モルンビィー高級住宅街の一角にある有名な店を選んだ。
大きな串刺しの肉が次から次へと、店員によって運ばれてくる。この珍しい光景に千香は驚くばかり、肉の塊を見るたびに輝明へ合図する。
「ほら、美味しそうな肉が来たわよ。たくさん食べなさい」
亜紀は聞きながら笑いを堪えていた。
「もう、千香は母親みたいね」