忘れ水 幾星霜 第三章 Ⅹ
「待って、その話だけど、突然に言われても・・。どう考えて、どう答えて良いのか分からない」
「ええ、そうね。簡単な問題ではないと思うわ。でもね、亜紀! 輝坊ちゃんから誘われたら、曖昧な答えはしないでね。あなたの偽りのない本心で答えて欲しいの。お願いよ」
真剣な眼差しで亜紀を見る千香。亜紀は千香の深淵な言葉を理解した。千香が疲れた様子を見せたので、ベッドに移し横にさせる。
亜紀はベッドの横に腰掛け、千香が眠りにつくまで手を握る。しばらくすると、千香の静かな寝息が聞こえ、亜紀はベッドから離れ部屋を出た。
亜紀がロビーに行くと、ガラス越しに外を眺めている輝明の後ろ姿が見えた。横に並び目線を外へ向けたまま、声を掛ける。
「千香は、少し休むと言って寝たわ」
「お世話になりました。どうぞ、座りませんか?」
窓際に近い席を勧める。
「ありがとう。それで、北島さんは帰られたのですか?」
「ええ、一度事務所に戻り、用事を済ませてから夕食の時間に来られるそうです。マルコスも事務所へ行きましたよ」
テーブルを挟んで座るふたり。遠い記憶の中に溶け込んだ輝明と亜紀。彼女を見詰める彼に対し、テーブルに目を置き俯いたままの亜紀。
《困ったわ。そんなに見詰めないで・・。》
「亜紀さん、不思議な気持ちですね。今、三十年の歳月が嘘のように消えた」
輝明が穏やかな声で話し掛けたので、亜紀はホッと心が平静になり会話ができた。
「そうね、信じられないことが起きている。輝君、覚えている? あなたのラブ・レターに書いてあることよ」
「えっ、ラブ・レター?」
「そうよ。出会いは偶然という奇跡が引き起こす。偶然を必然に変えることが、輝君の運命であると書いてあったわ」
《そう、あれはオレの愚作だ。素直に謝ろう》
「あれは、無我夢中で書いた幼稚な考えでした。後悔している。それに、羞恥心も無く亜紀さんの職場へ押しかけたこと、申し訳ないです」
輝明は、座ったまま頭を下げた。
「なぜ、なぜ謝るの? 謝る必要はないわ。嬉しかったもの・・。自分の気持ちを素直に表現できなかったこと、私の方が悔んでいる」
体を微動だせず目線を亜紀に向け、彼女の話を聞き続ける輝明であった。
「そして、日本を離れる最後の日まで、あなたの気持ちを踏みにじり不快にさせてしまった。特に、親友の千香に手紙を託すなんて、愚かな考えね。渡すとき、彼女は深く心を痛め悲しんだ。だから、こうして再会できるなんて、夢にも思えなかったわ。それに、それに、感じたことのない温もりに包まれるなんて・・」
亜紀の言葉が途切れ、沈黙が続く。しばらくして、輝明の言葉で沈黙の結び目が解かれた。