忘れ水 幾星霜 第三章 Ⅴ
リベルダーデ区東洋街のホテル・ニッケイに着いたのは、昼に近い時間であった。ふたりは旅装を解き、千香は半時ほど横になる。輝明は、シャワーを浴び着替えてから、ロビーへ降りた。ロビーには、亜紀と北島がカフェを飲みながら待っていた。
「あれ、マルコスさんは・・」
「あ~、うちの運転手と一緒に食事へ行きました」
亜紀の代わりに、北島が答える。
「そうですか。一緒に食事すれば良かったのに・・」
「輝君・・、気を使ってくれて、ありがとう」
輝明と亜紀は、故意に避けているわけでないが、空港以来の会話をした。
「奥様は、いかがですか? 食事は?」
「亜紀さん、千香ちゃんの様子を見てきてもらえますか? 眠っていなかったので、食事のこと聞いてください。その間、北島さんと打ち合わせをしていますから」
「ええ、いいわよ。部屋はどこ?」
「十二階のスイートです。はい、これがルーム・キー」
キーを渡す瞬間、互いの指先が触れ目線が重なった。
《もう、どうしたっていうの。いちいち意識して・・》
《なんだよ、オレは? ギラギラに目が血走って見えているだろうな》
輝明は、亜紀がエレベーターに乗るまで、懐かしい後ろ姿を見送った。
《後ろ姿は、あの時から変わっていない。あ~ぁ、あの長い髪》
扉が閉まる間際に、再び熱い視線が絡まる。扉から目をロビーに移すと、北島が窓側の席に座って手で合図した。輝明も了解の意味で、軽く手を上げてその場所に行く。
亜紀は音を抑え、静かにドアーを開ける。千香は左手の部屋のベッドに座っていた。
「千香、少しは休めたの?」
「うん、平気よ。熱いシャワーを浴びて、体も心もスッキリしたわ。亜紀、お土産は後で渡すね。ずいぶん迷ったわ」
「ありがとう。でも、わざわざ用意しなくても良かったのに、土産話で十分よ。聞きたいことが沢山あるもの」
「こっちだって、山ほどあるわ」
「じゃあ、滞在中は高校の修学旅行のように、喋り捲っちゃうか・・。ふふふ・・」
「本当ね、そうしよう。そうしましょう。ね、亜紀。うふふ・・」
亜紀は、千香の痩せ細った体を思い出し、無理な行動は避けるべきと考えた。
「食事はどうする? 輝君たちが待っているけど」
「そうね、軽い食事なら・・」
「ここには和食のレストランがあるから、行きましょう」
「うん、ちょっと待ってね。お化粧を直すから・・」
しばらくして、亜紀が千香の体を支えながらロビーに現れた。
千香が軽いうどん定食なら食べると言ったので、四人は二階の和食レストランへ移動した。