青き残月(老少不定) Ⅱ
その翌日。二校時終了を知らせるチャイムが鳴り、私が職員室から廊下へ出ると体育着の松原君と出会った。手には体育館用シューズをぶら下げている。
「おはよう、松原君」
「・・・」
彼は私の顔を白目で見る。無言のまま行ってしまった。
「随分、機嫌が悪いようだな」
仕方なく反対方向の廊下を行く。数歩行くと、咄嗟に思い出した。
「あっ、そうか。松原君でなく、ひろちゃんか・・。まずいことを言ってしまったなぁ」
私は、左手で自分の後頭部をポンポンと叩く。
昼休みの時間に彼を探した。校庭のサッカーやバレーボールで遊んでいる生徒には、彼の姿が見当たらない。図書室を覗いたが、やはりいなかった。
「どこだろう。早く謝らないと・・、嫌われてしまう」
三階の一年生の廊下へ行ってみる。顔を合わせる生徒たちは、元気よく挨拶するので気持ちがいい。上目使いで怖々と挨拶する生徒もいた。そのような生徒には、肩を軽く叩き軽快に言葉を交わす。すると、次からは元気な顔で挨拶した。私は嬉しくなる。
一組、二組と教室の中を見渡すが、見つからない。幾人かの生徒に松原君のことを尋ねてみる。意外にも、知らないという返事が戻ってきた。三組の教室に移りかけたとき、後ろから呼び止められた。
「先生、松原君なら知っているよ。浩ちゃんだよね」
ポニーテールの似合う女子生徒だ。
「うん、そうだよ。知っているの?」
「浩ちゃんは小学校が同じだったから・・」
「ありがとう。どこのクラスかな」
私の左手小指を掴んだ女子生徒は、松原君の居場所へ案内した。
「浩ちゃんは、このクラスです」
そこは【ゆうあい】教室であった。
授業開始のチャイムが鳴りだした。女子生徒は、掴んでいた私の指を離し、急いで自分のクラスへ戻って行く。ポニーテールの揺れる後姿が、教室の中に消えた。
【ゆうあい】教室の戸が、半分ほど開いている。そっと中を窺って見ると彼がいた。
「いる。いる。確かにいたぞ」
椅子に座って、何かの本を真剣に読んでいる。支援員の小池先生が、私を目ざとく見つけ教室の戸口にやって来た。
「宮崎先生、どうぞお入りください」
その声に、彼がチラッと私の方へ目線を移した。しかし、直ぐに本へ戻す。私は教室の中に入り、彼に声を掛けた。
「さっきは悪かったね、浩ちゃん。謝るよ、名前を間違えて・・」
松原君は本を読んでいるように見えるが、実際は読んでいなかった。机の下の両手は、指を絡ませたり組んだりと忙しく動かしている。私はその様子を見ながら、もう一度謝った。
「ゴメンな」
彼の手の動きが止まった。体がほんの少し、小刻みに揺れている。
「浩ちゃん。もう、いいでしょう」
「えっ、どうしたんですか?」
「実は、彩香ちゃんが宮崎先生を連れて、こちらに来られるのを見ていたの。それで、急いで席に戻って待っていました」
「小池先生、なんで教えちゃうのさ!」
茶目な顔で頬を膨らませ、小池先生に怒る。
「浩ちゃん・・、えっ、どうしてかな?」
私が問い掛けると、彼は私に顔を向けた。その顔は、笑いを堪える真面目な顔。
「フッ・・、フッ・・」
「ああ、そういうことか。アッハハハ・・」
私は本心から笑った。彼や小池先生も釣り込まれ笑い出した。そこへ、数学担当の都所先生が教室に入ってきた。
「ハイ、もう授業が始まっていますょ~」
私は笑いを堪え<お邪魔しました>の意味を込めて、両手を軽く振りながらそろそろと廊下へ出た。
それからは、彼と廊下で会えば拳ハイタッチで挨拶を交わすようになった。松原君は荷物で両手が塞がっているときも、わざわざ足元に置いてからハイタッチする。ただ、初めてのハイタッチは、不思議な感触を覚えたようだ。握りこぶしの触れ合った箇所を、松原君はじっと見詰めていた。