浸潤の香気 (大河内晋介シリーズⅢ)Ⅴ
千代は話し終えると、私ひとりで来るよう手招きした。
「若月、絶対に境界線内へ足を踏み入れるなよ」
彼は渋々と頷いた。私が千代の傍らへ行くと、千代は私を紹介する。
「この人が、例の大河内晋介さんです」
目の前の端麗な女性から、ただならぬ気品を感じた。私は自然に頭を下げてしまった。
「千代のため・・、世話を掛けるが・・、よしなに・・、頼み入る」
心地よい声が耳に響く。不思議な声だと思った。
「あの・・」
私がどう答えようか迷う。
「余計な口出しは、差し控えなさい。もう、境界線に戻ってもいいわ」
私は不満だったが、仕方なく黙礼してその場を離れた。若月の所へ帰ると直ぐに振り向く。先ほどの女性は姿を消していた。
「若月、あの女性はどこへ行った?」
「あっ、はい。突然に消えました」
千代が戻ってきた。
「驚いたかしら?」
「あの方は、どなたでしょうか? 普通の人ではない品格を感じたのですが」
「ええ、私が仕えた貴人の内室よ」
「えっ、貴人の内室? 何? 誰? いつの?」
若月が意外な言葉にびっくりする。私も驚いた。
「私は、江戸初期の宮中で女官として仕えていたの。位は典侍(ないしのすけ)」
「それは、高位の女官ですか?」
「そうね・・、内侍の女官では尚侍(ないしのかみ)の次、二番目かな。京都の皇室をお世話する立場にいた。でも・・」
千代が暗い顔して落ち込む様子を見せた。
「どうしたのですか?」
「それが・・、助けて欲しい内容なの」
千代は身に起きた事を話し始めるが、若月がそわそわして私の肩を叩く。
「どうした?」
「あ、あそこで何かが動いています」
若月が示す方向を見ると、確かにうごめく様子が見えた。それに気付いた千代が、冥府の線から離れるよう指示した。
「あれらは、私たちを狙っている邪鬼の群れだわ。さあ、線から離れて、冥府を閉じるわ」
私と若月が離れた瞬間、ぱっと閃光が輝きこの世に戻った。若月は初めての経験で、唖然として言葉もない様子。
「あっははは・・、驚いたようだな」
「あ~、眩しかった。まだ心臓がバクバクだあ」
「千代さん、ごめんなさい! それで・・」
彼女は頷き、語り始める。
「そう・・、事の発端は徳川幕府の鎖国政策。沈香の入手が困難になり、明や朝鮮から入るのは僅かな量だった。殆ど幕府側に流れ、宮中には微々たる量。それも見るからに粗悪品ばかり」
千代は怒りを発散しきれない表情で話し続けた。