謂れ無き存在 ⅢⅩⅣ
「防寒具だなんて、可笑しな表現だね。確かに温かいよ」
「でしょう~。気にいったかしら」
ますます密着する。
「勿論さ。最高級の防寒具だ! アッハハ・・」
「うふふ・・」
「ところで、明恵母さんの秘めた過去だけど・・」
室内に流れていた和やかな空気が、一瞬に滞り真美の顔が沈む。俺の左手は、彼女の小さな肩を抱き寄せる。真美は小さく頷き、小声で話し始めた。
「出産間近だったお母さんは、悪質な悪戯の犠牲になり歩道橋から転落。子供は死産。二度と産めない体になってしまったの。あ~、可哀そうなお母さん」
俺は返す言葉が見つからず、寄り添う真美の頭を抱き黙って聞くだけであった。彼女は俺の体にしがみつき、顔を胸に押し当てた。
「お母さんは、幾日も泣き続けた。明るい光を嫌い、心の奥へと沈む日々・・。あの頃の私と同じよ。苦しかっただろうね、お母さん・・」
真美の言葉が俺の心臓へ響き、直に一言一言伝わる。彼女から吐き出される息が、明恵母さんを思いやる真美の温もりであった。
「まだ心の傷が癒されない時に、あなたのお母さんが現れたの」
「えっ、俺の?」
俺は真美の体を引き離し、彼女の顔を直視する。真美の瞳は涙で潤み、困惑の影が垣間見えた。俺の心臓が怯え、その瞳から逃れようと彼女の顔を胸に押し抱く。
「そうよ。間違いないわ」
真美が話す度に、彼女の唇が俺の胸で動き回る。
「そ、それで・・」
「うん、幼いあなたを預けようとしたの」
「・・・」
「お母さんは、悩み苦しんだわ。とても悲しみ、怒りさえ感じたようね」
「子を失い悲嘆にくれる明恵母さんに、俺を預ける? あ~ぁ、俺の母親は、なんと残酷な人なんだ。俺は悲しいよ。明恵母さんに合わせる顔が無い、どうすればいいんだ」
ふたりは、しばらく無言で過ごし、思い思いに心を巡らす。俺は、テーブルの紅茶を手に取り、一口ほど飲んで心を落ち着かせようとした。
真美が俺から離れ、ソファから立ち上がる。俺の体から温もりが消え、虚しさだけが残った。