冥府の約束 (大河内晋介シリーズⅡ)Ⅰ
真夏の青い海原と白い砂浜。海辺の心地よい潮鳴りに耳を済ませ、寡黙なふたりは手を繋ぎ歩いた。時折、数羽の海猫が煩わしく鳴き騒ぐ。波際の砂浜には、独りの足跡だけが残っている。砂浜の先に小高い岬が海へ突き出ていた。ふたりはゆったりと登る。岬の上は爽やかな風が吹き、ふたりを先端へ誘う。
ふたりが出会ったのは、昨年の初秋であった。声を掛けたのは彼女が先である。
「気持ちのいい風ね?」
スーッと横に座って声を掛けてきた。突然に声を掛けられた私は驚き、横の女性の顔を覗き見た。潮風に彼女の長い黒髪が煽られ、私の顔を優しく触れくすぐる。
《えっ! 美しい横顔だ。誰、この人?》
「そうですね。もう、秋風が吹き、爽やかな風だ」
「驚かせて、ごめんなさい」
「いいえ、別に・・」
彼女は、遠くの水平線に目を合わせ、なびく髪を抑えながら話す。私はどうしたものかと考えたが、話し掛けた。
「私は、大河内・・、大河内晋介です。東京から来ました」
「・・・」
「ところで・・、あなたは、ここの人ですか?」
「・・・」
一言も答えが返ってこない。しかたなく、私は黙って前を見た。数隻の漁船が沖に向かって行く。私は座ったまま背筋を伸ばす。体を支えていた両腕が疲れてきた。手を置いていた砂浜の細かい砂を握りしめる。もう一度、隣の女性に話し掛けようと横を見る。
《そんな、いつの間にどこへ行ったんだ。間違いなく、横に座っていたのに・・》
淡いグリーンのブラウス姿の女性が、小高い岬に向かって波際を歩いている。私は追いかけようか迷った。
《別に、いいかぁ。追いかけたところで、なんになる。なにもないさ》
私は目線を戻し、水平線に見える蜃気楼を眺めた。北陸の日本海には、度々蜃気楼が海上に現れる。この場所が好きで、夏から初秋かけて毎年訪れる。しかし、あの女性から声を掛けられたのは、初めての経験であった。
気になり、今日は近くの旅館に一泊した。翌日の朝、朝食を済ませると砂浜に行く。この時期になると人影も疎らだ。ゆったりとした波が打ち寄せる。その時、私の体がざわざわと何かを感じた。
「おはよう・・」
私は敢えて振り向かずに、挨拶した。
「おはよう・・ございます」
囁くような声が聞き取れた。私は静かに声の方へ顔を向ける。目と目が合った。
《なんて、涼しい眼差しなんだ。オレの心が見透かされているようだ》
「昨日は、ごめんなさいね。名前は・・紗理奈」
「そう、紗理奈さん。綺麗なお名前ですね」
彼女は顔を下に向け恥じらう。
「あ~、会えて良かった。それに紗理奈さんの名前も知ることができた」
「うふふ・・、どうして?」
「いいや、昨日お会いしてから、気懸かりで帰れなかった。もう一度、お会いしたいと思ったからです」
「そんなことを言われるなんて初めて。恥ずかしけど嬉しいわ」
はにかむ様子に、私の心が揺れた。
「宜しければ、昼食を一緒にいかがですか?」
一瞬、彼女の顔がこわばった。
「ごめんなさい。もう、時間が無いわ。帰らなければ・・」
彼女は小高い岬に向かって、小走りに去って行った。