謂れ無き存在 ⅡⅩⅨ
「今日は、夕飯までいなさい。洸輝君は、主人と仕事の話があるでしょうから・・。真美は私の手伝いをしてね?」
「もちろん、喜んでするわ。料理をたくさん教えてね、お母さん?」
ふたりは腕を絡ませ、楽しい雰囲気でキッチンへ行く。俺だって、甘えたい気分だった。
《自分の性格に、もどかしく情けない思いだ。屈託ない真美の性格が、とても羨ましく思える。あ~ぁ、お母さん、お父さんか・・》
虚ろな目でぼんやりしていると、目の前のテーブルに『バサッ』と、カタログなどの資料が置かれた。
「えっ、なんのカタログですか?」
「これは、うちの店で取り扱っている商品だよ。覚えるのに大変だと思うけど、直ぐに慣れるから心配ないさ」
俺はカタログに目を通す。初めて見る商品が珍しく、使用方法の説明から目が離せなくなった。
「どうだ、便利で面白いだろう?」
「ええ、驚きました。それに、意外と値段が安いですね」
「そうなんだよ。利益が少ないので、在庫を置かずにカタログ販売。注文の度に発注する訳さ。だから、お店は小さくて済む」
俺は肝心な事を聞いた。
「お店では、先生と呼ぶのは変ですよね。社長でいいですか?」
「ああ、それでいいよ」
《それ以外は、なんと呼べばいいんだろう。お父さん・・、難しいな》
「何考えているの? お父さんって呼べば、簡単なことでしょう。もう、意気地なしね」
後ろから急に声を掛けられ、俺は息が詰まるほど驚いてしまった。
「ウッ、ハ~ァ。な、なんだよう、藪から棒に・・。息が止まりそうだった」
「アハハ・・、そんなことを、気にしていたんだ。私だったら、好きなように呼んでも構わない・・」
「え~、好きなように言ってもいい? それが分からず、悩んでいるんですよ」
「それなら、オヤジか、オヤジさんと呼べばいいじゃないか」
「そうよ、男ならオヤジさんと呼びなさいよ。ねえ、お母さん! あっ、お母さんは呼べるの? そ、れ、も、ダメ、なのかしら。ふふ・・」
俺にとっては、深刻な問題であった。父より母に対する蟠りが強く、素直に呼べそうもない。常に心の中で葛藤していた。
幼い頃、いつの日か母が迎えに来たら、どの様に呼べば良いのか考え、呼ぶ練習をしていた時期もあった。虚しい思い出である。