謂れ無き存在 Ⅹ
ふたりは話のことを忘れ、気持ちを料理に向けていた。
《この家庭的な雰囲気は、俺にとって無縁な環境だったな。望むことさえ考えていなかった》
俺は鍋の茹るパスタを見詰め、幸せの味を考えていた。
《甘い、辛い、それとも苦いのだろうか。小さい頃は、味なんて考えてもいなかった。施設の仲間とたらふく食べることが、大きな幸せと感じていたよな》
「コ・ウ・キ、これからは、私と一緒に幸せの味を楽しみましょう。ねぇ、いいでしょう?」
俺は驚き、隣の真美の顔を見る。彼女はまな板の野菜に目を置き、手は動いていなかった。俯く顔から涙が零れ、真美の手元に落ちてゆく。俺は咄嗟に小さな肩を抱き寄せる。彼女のいじらしさが、俺の心に愛しい感情を芽生えさせた。
《これが、愛の感情なのか? 不思議な感情だ。心身が熱く感じる》
パスタを茹でる鍋が吹き上げ、俺は慌ててガスを弱火に切り替えた。
「危ない、危ない・・」
「クックク・・。フフ・・、あ~、可笑しいわ」
「俺の、何が可笑しいのさ。変なことをやったのかな?」
「だって、真剣な顔で私を見ていたのに、急に目を大きく開けたのよ。すごく面白い顔だったわ。ふふ・・、思い出しちゃった。うふふ・・」
「あっ、そう。こんな顔だった!」
俺がその時の真似をする。真美は目を見開き、俺の顔を見ると大声で笑いだした。
「あっはは・・、ワハハ・・、もう、止めてよ・・。アハハ・・」
ふたりして笑う。俺は目の前の真美を抱きしめたが、彼女は胸の中で笑い続ける。しばらくして、笑いが収まり静かになった。だが、真美を支える腕が、小刻みに震える彼女の体を感知した。
《俺はもうダメだ。図らずも、完全に真美の虜になってしまった》
狂おしい思いで彼女の頭を抱き、己の胸に押さえつける。真美も腕を回し、彼女の熱い体を俺に強く寄せた。
《愛おしい、恋しい、もどかしい、狂わしい、この心の切迫感は、なんだ? あ~、切々と胸に迫る思い》
「洸輝、お腹が空いたね。笑ったり泣いたりで、忙しかったもの・・」
「うん、そうだね。冷めたら大変だ。早く、食べよう」
ほのかに湯気が上がるナポリタン。真美が用意したサラダ。俺にとって、それは十分な家庭料理だった。
「はい、食べなさい」
「えっ、・・・」
フォークに刺したサラダを、俺に差し出す。俺は口を開け、一口で食べる。
「あっ、オリーブ・オイルが美味しいよ」
「本当に? 良かった・・」