雨宿り Ⅲ
寝汗で下着がびっしょりだった。シャワーを浴び気持ちがさっぱりする。
《あの名前は誰だろうか。腑に落ちない。オヤジに聞けば分かるかもしれないなぁ》
その日の夜、仕事から帰るとオヤジに電話した。
「オヤジさん、元気かい?」
「どうした、お前から電話が来るなんて珍しいじゃないか? まあ、こっちはふたりとも元気だ」
「そう、それなら良かった。それで、ひとつ聞きたいことがある」
「なんだ、聞きたいことって?」
「うん、うちの親せきに新之丞、大河内新之丞という名の人を、知っている?」
「新之丞? 大河内 新之丞?」
群馬の田舎に住む父親は、電話口で名前を繰り返した。
「そうだ、じいさんに聞けば分かるかもしれない。小さい頃に、その名前をじいさんから聞いた気がする」
「えっ、そうなの?」
「軽い認知症になっているが、今なら聞けると思うよ」
「分かった。明日でも行ってみるよ」
「おい、彼女はどうした? 早く結婚しろよ!」
翌日の土曜日、午前だけ仕事に出て午後から休暇をとった。満員の新幹線に乗り、高崎の介護老人ホームに入居中の祖父を訪ねる。
中庭に面した冷房の効くホールで待つ。車椅子に乗せられた祖父が、介護士に付き添われてホールへやって来た。
「おじいさん、こんにちは!」
「うん? お前は誰だ?」
「え~、孫の晋介ですよ」
一瞬、私は心配した。
《孫のオレを忘れるなんて、昔の話は無理かなぁ》
「お、お~、そうじゃぁだったのう。晋介だ。良く来たなぁ」
「あ~、良かった。忘れられたと思ったよ」
「ばかな、ワシはまだまだピンピンだよ。可愛い孫を忘れるか」
「そうだよね。元気そうだもの。」
私は安心した。介護士が祖父を残して行ってしまった。
「おじいさん! 大河内 新之丞って誰だか知っている?」
祖父は、その名前を聞くと目を大きく見開いた。そして、何を思い出したのか、肩を落とし寂しそうな顔になった。その祖父の様子に、私が触れてはいけないものを呼び戻したようだ。
「大丈夫なの? まずかったかな?」
「いいや、平気だよ。もう古い話だが・・」
祖父は遠い昔を思い出しながら、ぽつりぽつりと話し始めた。
祖父には仲の良い新之丞という従兄弟がいた。小さい頃から一緒に育てられ、良く遊んだ。ふたりは東京の同じ大学に入学したが、太平洋戦争が始まる。その頃に、新之丞が三つ年下の和服の似合う美佐江と知り合ったらしい。
ある日、突然の夕立に襲われた新之丞が、古い民家の軒先に雨宿りしていると若い女性が逃げ込んできた。それが美佐江であり、ふたりの出会いであった。