恵沢の絆 Ⅰ
乾いた木枯らしが無常の風となり、病室の窓を『コン、コン』と叩く。窓辺のテーブルには、淡いピンクのシクラメンの鉢が一つ置かれていた。清潔な白いシーツのベッド上に横たわる兄。静かな呼吸に、命を繋げるモニターの電子音が『ピッ、ピッ、ピッ』と、一定のリズムで最後の時を刻む。
半時が過ぎようとしている。私は苦にすることなく、その場に立ち尽くす。様々な思いが重なる老いた顔を見詰め、兄が背負った家族への慈しみを思い巡らす。だが、計り知り得ない。
背後に人の気配を感じ、おもむろに振り向く。
「輝叔父さん・・、長時間のフライトで疲れたでしょう」
甥の貴志が立っていた。勤め先から、急ぎ駆けつけた様子。
私は、軽く頭を下げ、目礼で挨拶を交わす。目線を兄の顔へ戻すと、重い瞼を開けて私たちを見ていた。私の姿を見た兄は、驚いた様子で目を見張る。
「あ・・うう・・」
壁に立て掛けられた折りたたみ椅子を、ベッド脇に広げるとゆっくり腰掛けた。私は、胸の上に置かれた兄の小さな手を握る。細く弱々しいその手から、微かな温もりが伝わってきた。
「今、帰って来たよ。兄ちゃん・・」
兄の耳元に口を寄せ、話し掛ける。私の手のひらに、兄の指がわずかな反応を感じさせた。
「随分と世話になったけど、何も返せなかった。本当に悔む・・。ふたりでゆっくりと旅がしたかったね。特に、俺が住むブラジルに・・」
兄の手を両手で握り、湧き上がる感情のまま幾度となく小刻みに振る。
「兄ちゃんの弟に生まれて良かった。ボーイ・スカウトは、生涯の宝物で俺の人生全てだったよ」
この世に生きる確かな証しが、兄の目から一粒の涙となり、こぼれ落ちた。その涙は、白い枕に染み込んでゆく。私は心の奥に刻む。生きている限り、この涙を忘れることは無いであろう。
兄が驚くほどの力で、私の手を握り返す。兄の振り絞る力は、家族の絆である恵沢の心を、私の脳裏に蘇えらせた。
二十一歳の兄が、生後間もない私をボーイ・スカウトの制服姿で抱き、微笑んでいる写真が一枚だけ残っている。
その兄を身近な存在として意識したのは、私が保育園に通いだした時期であった。当時の母は、産後の肥立ちが影響して、入院生活を繰り返していた。兄は、幼い弟の寂しさを察し、私を高崎駅に近い知人の家へ連れて行く。
広い中庭に入ると、白い小さな群れが『キャン、キャン』と甲高い声で吠え、驚く私を目がけ迫って来る。逃げ回る私に一番懐いた、オスのスピッツ犬を選ぶ。家に連れて帰ると、姉の洋子が【チロ】と名前を付けた。
それ以来、兄の単車ライラックの燃料タンクと兄の体に挟まれ、誘われると喜んで乗って出掛けた。