忘れ水 幾星霜 第五章 ⅩⅡ
「よし、出発進行!」
「よし、輝坊ちゃんと最後の旅だ~!」
「・・・」
千香の言葉が胸に響く。ハンドルを掴む彼の手に力が入った。返す言葉がない。
「輝坊ちゃん、運転は大丈夫なの?」
「うん、平気だよ。事故ったら、最・・、千香ちゃんとの楽しい旅が、台無しだ。ゆっくり安全運転しなきゃね」
新名神高速道から伊勢湾岸道を抜け、新東名高速道で東京に向かう。予想よりスムーズに流れ、心配するほどでもなかった。千香も意外にリラックスして、元気な様子で車の移動を楽しんでいた。急ぐ旅でもないので、途中のサービスエリアに幾度も休憩する。
「何か温かい飲み物、いるかい?」
「そうね、ホット・レモンが飲みたい」
「分かった。ちょっと待ってね」
自動販売機で千香のホット・レモンと自分用の紅茶を買ってくる。気持ちの良い日差しで、寒さを感じなかった。
「はい、これでいいかな?」
「うん、いいよ」
キャップを開けて千香に渡す。
「少し熱いから、気を付けて飲んでよ」
輝明は、コンビニで買ったおにぎりを食べる。
「千香ちゃんも、少し食べてみるかい?」
「できればカステラがあれば、食べたいなぁ」
「そうだろうと思って、はい、買っておいたよ」
「凄い、さすがに輝坊ちゃんだ。偉い!」
袋からカステラを取り出して、包装紙を取り除く。千香に渡すと、ほんの少々つまんで口に運ぶ。輝明はその様子に、幾らか安堵した。
静岡県浜松辺りに来ると、車窓から見える富士山の姿を眺めていた千香が、ぽつりと呟いた。
「こんな綺麗な富士山の姿・・、これが見納めね」
その呟きに、輝明はバックミラー越しに千香の顔を見てしまう。彼女の頬に涙の雫が零れ落ちるところであった。千香に気付かれないよう吐息をつく。
《千香ちゃんの今の心理状態は、近づく者しか理解できない感情だと思う。あぁ、でも、オレは大事な千香ちゃんを失う方だよ。生きている限り、オレの気持ちは消せない。忘れろと言われても、絶対に忘れられない存在だ》
会話の無い無味な時間と空間に、輝明は押し潰されそうだった。
「千香ちゃん、音楽を聴くかい?」
「うん、輝坊ちゃんの好きな音楽でいいよ」
「千香の家にあった映画音楽集を持ってきたよ。それで、いいかな?」
「うん、それでいいよ・・」