忘れ水 幾星霜 第五章 ⅩⅠ
「いや、まだ決まっていない。佐和さんに休暇許可を出してから、北島さんに連絡するらしい」
「そう、楽しみだわ。それまでは、頑張るね・・」
「千香ちゃん、無理しないでよ。何かあったら、困るからね」
「心配しないで、分かっているわよ」
いつもの千香らしく、頬を膨らませて拗ねる。その様子に輝明は安心した。
翌日は、寒さがほどほどに和らぐ冬晴れの日。千香にとって心優しい日になった。高崎までの長い道中、無事に行けることを輝明は願う。レンタルのワゴン車で病院に着いたのは、予定の九時を少し回っている。
玄関横の待合室に、担当の看護師と千香が待っていた。輝明は運転席から下りると、千香のキルティング・コートを手に持って待合室へ行く。
「千香ちゃん、これを着てね」
「寒くないから、コートはいらない」
「いや、車に乗るまでは着た方がいい。ねえ、看護師さん」
「そうよ、ご主人の言うことを聞いた方が・・」
千香と輝明が顔を見合わせて、笑い出した。看護師は、何事かと不審に思っている。
「そうね、青木さん。可愛いご主人様の言うことは、間違いないものね」
「看護・・、青木さん、残念ながら夫ではありません。いとこです」
「まあ、そうなの? それは失礼しました」
「いいのよ、私にとっては子供であり、弟、夫、いとこなの」
「あら、妙な関係ですね。なんだか、面白そう・・」
「さあ、千香ちゃん! 行くよ」
「何を拗ねているの。 間違っているかしら?」
「いいえ、間違っておりません。おっしゃるとおり・・です」
「あらあら、何喧嘩ですか? 親子、夫婦、それとも兄弟?」
千香が口を押えて、笑いを堪える。
「あのう~、それでお名前は?」
「はい、金井ですが・・」
「金井さん、ご本人には説明済みですが、尿の留置カテーテル(挿管)を使用されていますので、バルーン(排尿袋)の取扱いには注意してください。恐らく、高崎まで問題ないと思われます」
「はい、分かりました。注意します」
「では、お気をつけて・・」
「お世話になりました。ありがとうございます」
後ろの座席に乗った千香に、毛布と飲み物を渡す。千香が看護師の青木に別れの挨拶を済ませ、輝明がドアを閉めた。
「千香ちゃん、忘れものは無いね?」
「大丈夫よ。忘れ物は、思い出と感謝だけ・・」