忘れ水 幾星霜 第四章 ⅩⅠ
千香は、理解していた。しかし、輝明と亜紀の貴重な時間を、奪い取ってしまう自分が許せなかったのだ。
「亜紀、ごめんね。私が元気なら、一ヶ月でも半年でもいられたのに、残念だわ」
「ううん、私のことより、千香の体の方が大切よ。この数日は、決して短い時間ではなかった。一秒一秒が、とても長く幸せを感じることができたもの。それを、あなたが与えてくれたわ」
「亜紀、今日は帰らないで、お願いよ。ねっ、輝坊ちゃん?」
千香は必死に望んだ。輝明も千香の本心を理解する。
「そうだね。帰るまでは大切な時間だと思う。亜紀さん、千香ちゃんの願い事を叶えてください。お願いします」
「いいわよ。私だって、嬉しいもの」
午後のホテルのひと部屋。その小さな空間が悠久の時空を越え、三人の過去と現在が不思議に絡み合う。幾星霜を感じることなく、自然の時間が流れていた。
輝明は、ソファに寛ぎながら好きなバイロン詩集を読んでいる。ふたりの会話が時折耳に入った。
《あの時、亜紀さんが日本に残りオレと結婚していたら、これが、日常の生活だったのかなぁ。時には、夫婦喧嘩。それとも、離婚。なんてバカなこと考えているんだ》
「輝君、輝君、何か飲みたい?」
「輝坊ちゃん、聞こえないの? またボケたのかしら・・」
返事をしない輝明に、千香がテーブルの雑誌を投げる。
「えっ、えっ? な、何?」
「あなたの奥様が、何か召し上がりますかって聞いているの。輝坊ちゃん、お返事はどうしたの?」
リラックスしていた体を起こし、かしこまる。
「あ~、もちろん飲みます。できれば、紅茶を・・」
「亜紀、私も欲しい。でも、薄めにね」
「いいわよ。紅茶なら、私も一緒に飲むかなぁ」
亜紀は居間のカウンターへ行き、ポットのお湯をカップに注ぐ。
《この雰囲気が、小さな幸せなのね。残りの時間を楽しまなければ・・》
目頭が熱くなる。そっと涙を抑えようとした。いつの間にいたのか、輝明がハンカチで彼女の涙を拭う。
「ありがとう、輝君・・」
「なんだか、いつもボクが泣かしているようだね」
千香に聞こえない小さな声で話す。
「違うわ。これは幸せの涙よ。あなた・・」
亜紀は首を振り、ささめく。不意に、後ろから抱きしめられた。彼女はカップから手を放し、抱きしめる彼の腕に手を置き胸へ凭れかかる。背中に彼の熱い体温を感じた。
《あ~、愛しい人・・》